【自己紹介④】日本ランキングに入るまで

前回のブログの続きです。

B級で2勝をして、A級に昇格しました。

ライセンスはA級が最高位なので、あとはランキングに入ってチャンピオンになることが目標です。

初8回戦

2009年1月17日に初8回戦を迎えます。

相手は日本ランキングに入っていた山中慎介選手

後の世界チャンピオンとの試合です。

山中慎介さんWikipedia

この試合に向けて当時まだデビュー間もない岩佐亮佑選手にスパーリングパートナーをしてもらいました。(岩佐くんも後の世界チャンピオン)

岩佐亮佑選手Wikipedia

合計5回くらいの岩佐くんとのスパーリングで、良かったのは0回。

まあまあだったのは1回。

残りのスパーは自分の動きができずにイーグルアイに見切られ、これでもか!というほどやられました。

岩佐君以外とのスパーリングではいい動きができるのに、当時はその理由がわかりませんでした。

山中さんとの試合は7RTKOの完敗

山中さんはサウスポースタイルの選手なのですが、オーソドックススタイルの選手とは距離感が違うため最初の一発を当てるためには特に駆け引きが必要です。

(サウスポーに限らず駆け引きは重要です)

当時の僕はパンチに過度な自信があり

”早く一発当てたい”と意気込み

駆け引きもあまりせずに戦ってしまっていました。

相手からしたら、馬鹿正直に自分のパンチが当たるところに勝手に入ってきてくれるのでやりやすいはずです。

横着な性格が完全に仇となりました。

もっと考えてボクシングができていれば。。。

復帰戦

初の8回戦で負けてしまいましたが、へこたれていませんでした。

「A級初戦が日本ランカーだったから仕方ない」

そう気持ちを切り替えていました。

復帰戦は4月頃(日程は覚えていません。。。)に決まり、相手は角海老ジムの田中稔大選手でした。

復帰戦に向けて練習、減量をして計量の日を迎えました。

計量の会場で体重測定していると、興行主がバックレたという情報が入りました。

「まぁ試合はやるでしょ」とそんなに気にはしませんでしたが周りがかなりバタついていました。

だんだん不安になり「この試合はどうなるんだ?」と心配しながら計量後の食事を後楽園のデニーズで摂っていましたが、JBCの方から試合は開催できないことを伝えられました。

しっかり準備しての中止は応えました。

中止になり試合に向けての集中が切れて、それから10日ほど遊びに遊びました。

しっかり気持ちをリセットし練習を再開すると、6月24日に同じ相手(田中選手)と試合が決まりました。

その試合は、僕のパンチによって相手のまぶたが切れて7RTKO勝ちしました。

この年はコンスタントに試合が決まり、

9月5日(vs.名取耕平選手)3RTKO勝ち

12月17日(vs.工藤洋平選手)2RTKO勝ち

で自信を深めました。

ランキングイン

A級で3連勝し、所属ジムのトレーナーや会長から船井は日本ランキングに入れる実力があると評されました。

2010年5月17日に当時日本ランキング11位にランクされていたサラゴサ上間選手と試合を決めてもらえました。

8Rのライセンスですが試合は5Rで決まりました。(興行の合計ラウンド数には上限があり、8Rだとそれを超えてしまうため)

試合結果は、5R判定勝ち

翌月の日本ランキングで11位にランクインすることができました。

この試合は初めて大きな会場(さいたまスーパーアリーナ)での試合でしたが

前座の僕の試合では観客席は全然埋まっていなくて、応援も野次もめちゃくちゃ聞こえてやりづらかったのを覚えています。

メインは世界チャンピオンだった内山さんの初防衛線で、観客でいっぱいでした。(内山さんは6RTKOで勝利をしました。)

僕はこんなでっかい会場で世界戦をすることはできるのかな。と思っていました。

この時の戦績は16戦12勝8KO4敗

続く、、、

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